スジャータとは
お釈迦様を救った、インド人女性の名前です。
生死の境を行き来する程の厳しい修行(苦行)を行った事だけでは悟りを得ることは出来ないと気付いたお釈迦様は、苦行を終えて下山しましたが、苦行による衰弱のため、河のほとりで動けなくなりました。
その時、近くの村に住んでいたスジャータがお釈迦様に乳粥の施しを行いました。乳粥の施しによって、心身ともに回復したお釈迦様は、菩提樹の下で坐禅を組み瞑想を続けた後、ついに悟りを開きました。
万松寺では、このスジャータの功績を称え、「スジャータまつり」として、お釈迦様が悟りを開かれた日を祝う行事を毎年12月初旬に開催しています。
お釈迦様について知る
お釈迦様とはどのような人物だったのでしょうか。仏教の開祖、お釈迦様の生涯についてご紹介します。
お釈迦様の誕生
お釈迦様は今から2500年ほど昔、ネパールの南部、インドとの国境近くにあったシャカ国の王子として誕生され「シッダールタ」と名付けられました。
母親のマーヤー妃は出産のための里帰りの旅行中にルンビニでお釈迦様を生み、7日後に亡くなりました。
父親のスッドーダナ王は母親を亡くした息子に不自由させないよう、また王位を継いで欲しいと恵まれた過保護で贅沢な環境でお釈迦様を育てました。
お釈迦様の誕生に関しては「マーヤーの脇の下から生まれた」という話や「生まれてすぐに7歩だけ歩いて、右手で天を、左手で地を指し、『天上天下唯我独尊』と唱えた」といった伝説もあります。
出家を決意
お釈迦様は16歳で結婚、そして男の子が生まれ、一見順風満帆に見える生活でしたが、その実人生の問題、老い、病、苦について悩んでいました。
そんなある日、お釈迦様は城の東門から出る時に老人に出会い、南門では病人に、西門では死者を弔う行列に会い、ショックを受けました。ところが北門で修行者と出会い、出家を志すようになりました。それを知った父は引きとめようとしましたが、お釈迦様は29歳の誕生日の夜に出家を決意し城を出ました。
過酷な修行
お釈迦様は良い師を求めて旅をし、何人かの師を訪ねましたが、どれも自分の目指すものではないと満足することのないまま、師のもとを去りました。
その後、お釈迦様は5人の修行者とともに苦行の生活に入ります。
肉体への苦痛による精神の浄化を苦行とし、力を得るための修行として、断食、息を止める、冬の川での沐浴などの過酷な生活を6年間続けましたが、お釈迦様は求める答えは苦行では得られないと気付き、苦行を放棄しました。
成道(お悟り)
5人の修行者は、お釈迦様が単に苦行に耐えられず修行を放棄したと思い去って行きました。
お釈迦様は川で身を清め、村娘のスジャータが施した乳粥によって体力を回復。その後菩提樹の下で坐禅し、深い瞑想に入り12月8日に悟りを開かれ、ブッダ(=目覚めた人)となりました。お釈迦様が35歳の時でした。
12月8日はお釈迦様がお悟りになった日を記念して、毎年多くのお寺で「成道会(じょうどうえ)」という法要が執り行われています。
伝道の旅
お釈迦様はお悟りを開いてから80歳でお亡くなりになるまでの45年間、休むこと無く布教の旅を続けられました。
お釈迦様のお導きによって多くの修行者が悟りを開き教えを広めていきました。
「人はどのように生きたら良いのか?」「人はなぜ苦しむのだろうか?」という疑問を解決するために出家し、お悟りを開いたお釈迦様。
全ての人を救うため、人が幸せになれる方法を広めることにその生涯を費やされました。ここではお釈迦様の教えを知るキーワードをいくつかご紹介します。
中道(ちゅうどう)
お釈迦様は、王子のように裕福で贅沢な生活(快楽)と、過酷な苦行のような両極端を「二辺」として否定し、苦にも楽にも偏らないバランスの取れた生き方を中道としました。
血を流すほど真面目に修行を続けても悟りを得られないと悩む弟子が、出家する前は琴が得意だったと聞くと、お釈迦様は「琴の弦は強く張れば良い音が出るのか?」と尋ね「琴の弦は強すぎてもゆるすぎてもよい音が出ない。修行も同じように怠けていてはダメだが、苦し過ぎても修行にはならない。」と説きました。その弟子はそれによって心が楽になり、間もなく悟りを開きました。
これは中道を示す一つの話ですが、現代の悩める日本人にも参考になる考え方ではないでしょうか。
四諦(したい)
悟りに至るまでの四つの段階。
- 苦諦(くたい)
- 一切は苦であるという真理
- 集諦(じったい)
- 苦には原因があるという真理
- 滅諦(めったい)
- 苦は滅するという真理
- 道諦(どうたい)
- 苦を滅する道があるという真理
お釈迦様は迷いの現実こそが「苦」であり、その「苦」は克服できるものと明らかにされました。
四苦八苦
非常に苦労する様子を「四苦八苦」と言いますが、元々はお釈迦様が人間は苦なる存在であると、苦を分類したものです。
- 生・老・病・死=四苦
- 誰もが避けることができない根本的な苦しみ
- 愛別離苦(あいべつりく)
- 愛する人と分かれる苦しみ
- 怨憎会苦(おんぞうえく)
- 会いたくない人と会わなくてはいけない苦しみ
- 求不得苦(ぐふとくく)
- 求めても満足できない苦しみ
- 五蘊盛苦(ごうんじょうく)
- 心身が思い通りにならない悲しみ
四苦に社会生活の苦しみ4つを加えたものが四苦八苦となります。
八正道(はっしょうどう)
人生の苦を乗り越えるための方法。
- 正見
- 物事を正しく見ること。
- 正思
- 物事を正しく考えること。
- 正語
- 正しいものの言い方をすること。
- 正行
- 正しい行ないをすること。
- 正命
- 正しい生き方をすること。
- 正精進
- 正しく努力すること。
- 正念
- 正しい教えを忘れないこと。
- 正定
- 正しく心を整えること。
八正道は悟りを開く方法であるとともに、人間形成の方法でもあります。
お釈迦様に関する「え?そうなの?」と思えるような豆知識をいくつかご紹介します。
お釈迦様は実在の人物なの?
お釈迦様の生涯に関しては不明なことも多く、実在した人物かどうか疑われた時期もあります。
しかし、1898年に北インドとネパールの国境付近の地で、イギリス人がお釈迦様の遺骨を発見したことにより、お釈迦様は実在したということが裏付けられました。
誕生年に関しては諸説ありますが、日本では紀元前463年であるという説が有力です。
お釈迦様の遺骨は日本にあるの?〜万松寺とのエピソード
お釈迦様は80歳でお亡くなり(入滅)になった後火葬され、遺骨(仏舎利)は埋葬されました。
そして1898年に発見されたお釈迦様の遺骨はタイ国に寄贈されました。
その後1900年に遺骨の一部は日本にも贈られます。
この時の条件は特定の宗派ではなく全仏教宗派に対しての贈与とすること。
国内に無事運ばれたものの、安置場所がなかなか決まらず、2年間は京都の妙法院に仮安置されていました。
名古屋に宗派を超えた寺院、日泰寺の建立が決まった時、その建立までの2年間の仮安置場所を、ここ大須の万松寺としたのです。
1904年からは覚王山の日泰寺に安置されています。
「北枕」とお釈迦様との関係
一般に縁起が悪いと言われる「北枕」は、お釈迦様が亡くなられた際、頭を北へ、顔を西へと向け、右脇腹を下にされていたことに由来しています。
日本では人が亡くなられた際には「北枕」にすることから「北枕は縁起が悪い」と言われるのでしょう。
しかし、お釈迦様の臨終前の姿勢(「頭北面西右脇臥」ずほくめんさいうきょうが)は人が一番楽な姿勢とも言われ、お釈迦様の苦痛を少しでも楽にしようとしての「北枕」という説もあります。
お釈迦様?ブッダ?どう呼べばいいの?
まず、お釈迦様には「ゴータマ・シッダールタ」という両親がつけたお名前があります。
コミックのタイトルにもある「ブッダ」というのはサンスクリット語で「目覚めた人」「悟りを開いた人」という意味です。
そしてお釈迦様の「釈迦」は、出身地の部族の「シャカ族」からきています。
他にも様々な呼び方がありますが、日本では親しみを込めて「お釈迦様」と呼ばれることが多いようです。