不動堂
御立体の石像の不動明王像をお祀りしています。
中村正義作「不動八大童子」襖絵と色鮮やかな格天井が見ものです。
織田信長と不動明王
永禄13年(1570年)、天下布武を目指す織田信長は、越前(福井県)の朝倉家の領地へ攻め入りましたが、同盟関係にあった浅井長政の裏切りに合い、撤退を余儀なくされました。撤退の途中、信長が近江国(滋賀県)に差し掛かった時、潜んでいた鉄砲の名手、杉谷善住坊(すぎたにぜんじゅぼう)に至近距離から狙撃されました。
しかしながら鉄砲の弾は信長の懐中(かいちゅう)に入れていた干し餅に当たり、信長自身はかすり傷で済みました。この干し餅は万松寺の和尚から貰い受けていたもので、信長は日頃信仰していた万松寺の不動明王の加護のおかげと深く感謝しました。
信長が亡くなった後、万松寺を宿舎としていた加藤清正がこの話を聞き、万松寺の不動明王を「身代不動明王」、干し餅を「身代わり餅」と命名しました。
身代不動明王
みがわりふどうみょうおう
不動明王は、五大明王の中央に配される明王です。日本では、空海が中国修行を終え帰国する際に、暴風雨で船が沈みそうになったのを不動明王に救われたことから熱心に不動明王を信仰し、それが各地に広まったといわれています。以来「お不動さん」の名で親しまれ、宗派を超えて多くの人々に信仰されています。
一般的に明王は、忿怒相(ふんぬそう)と言われる怖い形相をしています。これは衆生(しゅじょう)※1を何が何でも、救済するという強い意志の表れとされています。中でも不動明王は、天地眼といい、右眼で天、左眼で地を睨み、すべてを見渡しています。また口元は、牙上下出(がじょうげしゅつ)といい、右の牙は上方を向き「上求菩提(じょうぐぼだい)」※2を、左の牙は下方を向き「下化衆生(げけしゅじょう)」※3を示しています。
右手は、煩悩とされる貪・瞋・痴(とん・じん・ち)※4の三毒を打ち消すための「利剣(りけん)」を持ち、左手は、煩悩を縛り上げたり、人々を正しい道へ救い上げるための「羂索(けんさく)」という縄を持っています。
背後は、三毒を喰らう守護神迦楼羅(かるら)の吹く炎を表す「迦楼羅焔(かるらえん)」を背負っています。
足元は、衆生を救済するまで、ここを動かないという強い意志を表すかのように、非常に強固な金剛石に鎮座しています。
不動明王の姿は時代や背景によって異なるとされています。例えば、先に紹介した天地眼と牙上下出は、平安時代の中期以降の姿とされており、それ以前の不動明王は両目を大きく見開き、牙も左右ともに下方を向いています。しかし、姿が異なっても衆生を救済するという役割が変わることはないため、現代においても無病息災や家内安全等の現世利益から厄難消除や災難消除等の邪気払いなど様々な御利益を求めて各地で信仰されています。
中国の「聖無動尊一字出生八大童子秘要法品」(「秘要法品」)によれば、不動明王には仏の智慧である四智と四波羅密(しはらみつ)菩薩の役割を司る童子(八大童子)が仕えていたといわれています。万松寺の不動堂の襖絵には、その不動八大童子が描かれています。
- 人間をはじめとする、生命のある全てのもの。
- 己自身が悟りを求めて精進すること。自己利益を表す。
- 衆生を救うために精進すること。他者利益を表す。
- むさぼり・いかり・おろかさ
【身代不動明王の御利益】
厄難消除 災難消除 身体健全 無病息災 病気平癒 交通安全 家内安全 開運成就 良縁成就 安産成就
また、万松寺名物「信長 身代わり餅」を札処にて常時販売しています。